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2006年09月29日

11月2日に文京区景観審議会開催

11月2日に文京区景観審議会が開かれることが決まったようです。噂によれば、この審議会で審議される「文京区ふるさと景観賞」(今年で6回目、毎年7月~8月に公募)の今年の候補に文京区元町公園の応募が多数あったようです。結果が楽しみですね。

2006年09月28日

9月26日、27日総務区民委員会

9月26日と27日に総務区民委員会が開かれました。

委員の方々の追及により、文京区が秘密のうちにいろいろと進めようとしたために齟齬が出たこと、それを区民から隠すために不正をはたらき、うそをつき、こそこそと、とんでもないことをし続けていることが明らかになっています。
区民としてはただただあきれるばかり。

26日:元町公園について、鹿倉委員が区に対して質疑を展開。
文京区が9月6日に文化庁に協議に行っていたことが明らかになりました。内容は9月4日の識者を集めた秘密会議で提示された案を見せたようです。公園の1/4ほどの部分を残した案で、その部分を「登録文化財にできないか」というもの。

これはつまり、元町公園の文化財としての価値を自ら認めているということではないですか。それでいながらその文化財を自ら破壊しようとは一体全体どういうことでしょうか。これはもう立派な文化財保護条令違反です。条令を遵守させる立場の役所が自らそれを破ろうとは、ひどい役所もあったものです。

文化庁側は、まずは文化財としての調査・評価・記録をすること、それを前提にしないと話にならん、という感じで取り合わなかったようです。当然ですよね。

27日:ふるさと歴史館パンフレットの不正、検閲行為が明らかに。
今年の3月に「ふるさと歴史館だより」(全8ページ:文京区の歴史資料館で発行している、年間の行事予定などが書かれたパンフレットです)が、破棄され、溶解処分をされていることが明らかになりました。その上で4月になって、ほぼ同じ内容の全6ページのパンフレットを再印刷させているのです。何という税金の無駄遣い!ただもうびっくりです。
では一体なぜ文京区がこんなことをさせたのかというと、その失われた2ページが元町公園に関する記事だったからだというのです。「区民の混乱を避けるために破棄した」と答弁をしています。
この記事は歴史館の学芸員の方がお書きになったものなのだそうですが、それを区長部局が検閲し、出版公開を差し止め、別の新しいものを作製して何事もなかったかのように振舞おう(そのために公文書を偽造している)という、まるで戦時中の独裁政権のようなことが平気でまかり通っているのです。

こんな文京区に住んでいるのかと思うとすっかり背筋が寒くなりました。

2006年09月24日

朝日新聞09月22日付、朝刊 「新大塚公園問題」

朝日新聞の朝刊(東京版34面、教育欄)に文京区の公園と中学校統廃合問題の記事が掲載されました。元町公園だけでなく、文京区では新大塚公園という、やはり多くの住民に愛されてきた公園が存続の危機に直面しています。
新大塚公園の改廃に反対する署名は何と、1万7千筆以上も集まっているのに区長以下は、
「数の問題ではない」と、これまでまったく誠意ある対応をみせていません。


朝日新聞記事はこちら
http://mytown.asahi.com/tokyo/news.php?k_id=13000180609220001

文京区では、公園緑地や学校統廃合に関する行政だけでなく、現体制全体に不信感がたかまっています。文の京(みやこ) と称する区政の実態や如何に・・・・・・・。
煙山区長、成澤議長、高山議員、渡辺議員ほかへの苦言や疑問も続出!
地方税不払い運動立ち上げの声なども上がっています。
詳しくは、新大塚公園を守る会の「掲示板」などをご覧ください。
http://sakura.web5.jp/yybbs/yybbs.cgi

2006年09月19日

蘇るカスケード  

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9/15に朝日新聞の取材がありました。簡単にその時の様子をご報告します。
参加者:地元の方5名+たてもの応援団1名+ぱぱっと2名
時間:10:30~12:45
場所:元町公園+オレゴンルーム(近くのカフェ)

15分程遅れて到着すると、公園内を説明しながら皆で巡っていました。外堀側の鷲の像まわりのツタを取払った為、はっきりとその凛々しい姿が確認できるようになりました。
続いて一大イベントとして、カスケードに水を流してみました。多少時間はかかりましたが、かつての姿に、地元の方々は感慨深げにご覧になっており、水が流れることで、カスケードだけでなく、公園全体が呼吸を始めた気がしました。チロチロという流水音も本当に心地よいものですよ。「皆でこの時を共有したい」と強く感じた瞬間でした。

もうひとつ、新事実が判明しました。昭和第一高等学校側の塀に、大きな穴を埋めた跡が2箇所あります。なんと防空壕の跡でした。私も知らなかった・・・。「この中にお宝が?」という声に、地元の中園さん、「物がなかった時代ですからあり得ません」・・・・確かにそうかもしれませんね。
さらに新事実もうひとつ。皆さんは軟式野球のチームをつくっていたそうですが、その名も「パーク・フレンズ」。(横文字でハイカラ!)驚いた事に私の父もメンバーだったそうです。・・・これも全く知りませんでした。(個人ネタでスミマセン)

私たちは地域の方々、特に公園周辺の方々や昔から利用されている方々のこうした言葉や気持ち、思い出を、できるだけたくさんの方々に伝えていきたいと思っています。今回の取材がその一助となる事を強く願っています。(掲載日程は未定)以上簡単ですが、報告を終わります。

2006年09月18日

公開質問状への回答 (その2)

みなさま、公開質問状への回答第2弾です。わたしたちの知る限りでも文京区による計画案というものは公開されていないのですが、密かに回覧されてでもいたのでしょうか。

2)山本議員は、7/26に開かれた都市計画審議会直後に、ご自身のブログhttp://kazuhito20.exblog.jp/m2006-07-01/#3886271の文中において「区の計画案」の説明をなさっていますが、これは区から提示されているどの文書に存在するのでしょうか? この発言の根拠をご存知でしょうか?

・東村昭平委員(新生クラブ):現時点で無回答

・山本一仁委員(新生クラブ):現時点で無回答

・国府田久美子委員(日本共産党):
知りません。区の計画案は何も示されていないのですが。

・岡崎義顕委員(公明党):現時点で無回答

・藤野美子委員(公明党):現時点で無回答

・角野英毅委員(自民党):現時点で無回答

・鹿倉泰祐委員(市民フォーラム):
発言の根拠は知りません。
 しかし、都は2年前に元町公園(本郷1丁目)を文化財として「名勝」候補として文京区に打診していますが、文京区がこの提案を区民に秘密にしていたことが問題です。区は、総合体育館は老朽化し、現在地では改築不能と説明していますが、鹿倉泰祐の調査では、区長が「特例の認定」と判断すれば改築可能ですし、旧四中跡地も体育館設置が法令で建設不可能と説明しましたが、これも区の建築審査会の許可があれば建築可能です。


2006年09月15日

公開質問状への回答 (その1)

みなさまお待たせいたしました。文京区都市計画審議会の区議委員の方々への公開質問状回答の詳細が届きましたのでご報告します。9/1に質問を投げかけ、9/10が回答の期限だったようですが、今日15日の時点でもお返事をいただいたのはお二人だけのようです。まだお返事を出していただいていない委員の方々!まだ受け付けてもらえるそうなので頑張って出してくださいね。
さて、まずは第一の質問と各委員の回答をお読みいただき、このブログをご覧のみなさまもじっくりと考えてみてください。

1)総合体育館の建替え用地は、なぜ、現元町公園でなければならないのか不明です。 
みなさまは、この選択・決定を適切あるいは妥当とお考えですか? Yesの場合はその理由をご説明ください。

・東村昭平委員(新生クラブ):現時点で無回答

・山本一仁委員(新生クラブ):現時点で無回答

・国府田久美子委員(日本共産党):
NOです。(妥当でない)
 湯島総合体育館の建替えは、現在地にて行うことが不可能ではないと考えます。また仮に別の場所に建設する場合も、元町公園は東京都の名勝指定の対象になっており、極めて文化財的価値が高いということは、専門家、学会等からも指摘されている通りであり、現状を保存すべきと私は考えておりますので、体育館は公園を避けて建設すべきと思います。元町公園廃止には大反対です。

・岡崎義顕委員(公明党):現時点で無回答

・藤野美子委員(公明党):現時点で無回答

・角野英毅委員(自民党):現時点で無回答

・鹿倉泰祐委員(市民フォーラム):
NO
(理由) 区長は、区民や総合体育館(湯島4丁目)の利用者の意見も聞かずに、総合体育館を元町公園(本郷1丁目)に移設を計画しましたが、その隠れた理由は、二年近く前から秘密裏に進めてきた総合体育館用地と東洋文庫(本駒込2丁目)の用地交換を行うためです。この計画は、東洋文庫は総合体育館に移り、総合体育館が元町公園に移設し、元町公園は旧元町小の部分に移設し、東洋文庫敷地は昭和小学校の統合用地とするもので、開かれた場で区民の声を聞きそれを実現しようとするものではありません。

2006年09月14日

元町公園と元町小学校の保存・活用を要望!

文京区文化財保護審議会の委員の先生方全員が連名で、9月8日に要望書をお出しになりました。文京区長に元町公園(昭和5[1930]年開園)と元町小学校(昭和2[1927]年竣工)の保存・活用を要望するものです。その中で6項目にわたり、元町公園・元町小学校が、大正12[1923]年9月1日の関東大震災直後に計画・設置された52箇所の小公園・小学校のなかで唯一保存されている「多面的価値を有する文化財として貴重」であると述べておられます。
とても重要なご意見・ご要望であり、誰にでもわかりやすく的確な文章であると思われますので、以下にその6項目を転載させていただきます。

1.52箇所は、いずれも小公園と小学校を隣接させ、地域の中心施設として東京市によって設置されたもので、往時の構成をよく保存した唯一の震災復興小公園・小学校としてわが国の戦前期に実施された優れた都市計画上の事例として、極めて貴重である。

2.元町公園(計画・設計責任者:井下清)は、とりわけ神田川を見下ろす台地の端に位置するなど地形の特性を配慮しながら、人々がこの公園から震災後の復興の様子を一望し再興の決意を新たにすることを意図した優れた設計であり、極めて貴重である。

3.元町小学校は、強固な耐震性をもった重厚な昭和初期の鉄筋コンクリート構造による学校建築として数少ない建物であり、また、表現派の影響を示すなど時代性を反映した外部意匠は建築史上、極めて貴重である。

4.上記の背景から地域の人々は震災後の復興の記憶を思い起こす場として、また文化遺産として等しく愛着を持っており、強い保存要望がよせられている。

5.(社)日本造園学会、(社)日本建築学会、(社)土木学会など、多くの関係学会から学術的価値が評価されており、多面的価値を有する文化財として極めて貴重である。

6.文化庁文化財審議会名勝部会委員から河合文化庁長官に対して元町公園の保存要望書が提出されていること、また東京都史跡等整備検討委員会報告(平成16年3月31日)において名勝指定対象とすべき公園の筆頭に挙げられていることに見られるように、元町公園の文化財としての価値は東京都や国のレベルでも高く評価されている。

2006年09月13日

公開質問状のこと

都市計画審議会の文京区議委員の方々に元町公園に関する公開質問状を投げかけました、という情報を入手しました。今月の頭にみなさまにお渡しして10日ほど後にお返事を下さいとのお願いをしたそうです。
質問の内容は、簡単にまとめてしまうと、以下の3点についてご意見を賜りたいというもの。 1)なぜ総合体育館の建替用地は元町公園でなければならないのか? 2)某区議が都市計画審議会後にご自身のブログで区の計画案の説明をなさっているようだがその根拠は? 3)文化財保護審議会や景観審議会に諮問をせずに、元町公園の歴史性や文化性、景観に関する検討はどのようになされるのか?
とても興味深いところなのですが、残念ながら今日の時点では、7人いらっしゃる区議委員の方々の中でご回答いただいたのはお二人だけだとか。区議会もはじまってお忙しい時期なので大変だとは思いますが、そんな中で回答を下さった方々もいらっしゃるのですから。
さて、お渡しした質問状に回答用の官製はがき(もはや民製?ですか)を添付してあったそうですが、もしや贈賄になってしまうのではないか、と質問状を出した方は心配しているようです。
まだ返事を出していない区議委員の方々、回答を送ってそんな心配は無用のことにしてあげてください。

それはそうと、詳しい内容の情報はまだいただいていないので、後日。

2006年09月08日

「モダンがまちにやって来た!」(7月24日開催)のご報告

みなさま、大変おそくなりましたが、去る7月24日に開催した緊急シンポジウム 「モダンがまちにやって来た!」 (於:旧元町小学校) について、講演者のかたが、当日のご自身のお話についての概要を送ってくださっているので、ここにご紹介したいと思います。原稿は、8月上旬にいただいていたのですが、いろいろ忙しくしていて、なかなか掲載できなくて申し訳ございませんでした。元町公園と旧元町小学校のこれから について、より広い議論と関心の輪がひろがる一助になることを祈っています。
なお、このシンポジウムは、都計審の前に大慌てで開催したようなこととなってしまいましたが、それでもそのときに、本郷元町パブリックデザイン連考/「モダンがまちにやって来た!」 という名前をつけました。
1回きりではなくて、連続講座のようなものをイメージしています。
わたしたちは、この元町の地でずっとずっと、パブリックデザインについて、みんなで考えていく集まりを続けていきたいな、という夢を抱いています。

元町公園と旧元町小学校が、パブリックデザインについて、そして、防災&震災(災害)復興について、、、、、の意見交換や心の交流の場として活かされていけば、と願っています。

では、前置きが長くなりましたが、7月24日の夜のお話の一部をお読みください。

「震災復興小公園(の価値)」 小野良平(7月24日)

■公園というのは近代にあらわれた比較的新しいものですが、たとえば東京では上野公園は130周年、日比谷公園、新宿御苑は100周年を迎え、いまや歴史の中の存在となっています。こうした都市の顔のような公園ばかりでなく、地域の中の身近な小さな公園が飛躍的に都市に整備されたのは関東大震災の後ですが、これも80年も前のことです。公園は今現在私たちにどれだけ役に立っているかばかりでなく、それがその場所にあり続けた歴史をきちんと評価することが必要と考えます。このような観点で、本郷の元町公園を中心にしながら震災復興小公園の価値を考えてみようと思います。

■地域の身近な小公園は震災復興で突然あらわれたのではありません。「市区改正」と呼ばれた、明治中ごろからの今の都市計画に相当事業の中で少しずつでしたが、街中の小公園が東京に現れました。その始まりは日本橋近くの坂本町公園で明治22年の開園です。街角の四角いスペースに、真ん中に広場をとり周囲を樹木で囲んだ単純なものでした。どこか和風の趣きでもあったようです。これを手がけたのが、東京の公園行政の先駆者である長岡安平さんです。

■こうした小公園は、明治後期から大正期にかけて少しずつ造られていましたが、基本的には財政難からなかなか進みませんでした。しかし一方、都市計画の考え方は市区改正の時代から発展し、近代都市をどのように制御していくのかという議論、研究も公園なども含めて進められ、大正9年には都市計画法という法律もつくられました。こうした時代に発生したのが関東大震災です。つまりこの災いは結果的に当時の最新の都市計画のアイデアを実践する機会を提供することになったのです。

■都市計画法の制定にも深く関わった後藤新平さんのもと、震災をうけた東京(と横浜)は、「帝都復興」として、単なる復旧ではない抜本的な「復興」が目指されました。公園もその重要な存在のひとつで、事実、公園や緑の存在が震災時に火事の燃え広がりを止め、避難所として機能することが確かめられました。こうして公園計画がいろいろ検討されましたが、最終的に実現したのが、東京・横浜でのそれぞれ3箇所の大公園と東京の52箇所の小公園です。

■東京の大公園は、隅田公園、浜町公園、錦糸公園の3箇所です。このうち隅田と浜町公園はともに隅田川沿いのものです。隅田公園は江戸の桜堤をモダンなデザインで復活させたものでした。浜町公園は、緑のネットワークで防災機能を高めようという考え方を具現化し、公園から短いながら並木道が街へ伸びていく特徴を持っていました。

■さらに小公園は焼け野原となった下町を中心に、52箇所にも及んで一気に整備された大変画期的なものでした。これはまさに地域の中の身近な公園として考えられたもので、その最も特徴的なアイデアは、小学校-これも復興小学校として名高いものですが-とペアにして地域コミュニティの核として公園が位置付けられたことです。十分な土地の得られない都心の学校を公園とセットで考えることで、学校からみれば校庭の延長にもなるし、公園からみれば空間の拡がりや災害時のスペースが確保できるというものです。この小公園の整備を指揮したのが東京市公園課の井下清さん、長岡さんの後継者です。

■復興小公園の特徴を少しみたいと思います。空間としては、中心となる広場と、児童の遊ぶスペースを分けた構成をとるのが基本的な特徴です。ただしこの構成は震災復興以前に明治末にできた御茶ノ水公園(震災復興でなくなりましたが)で既に採用されています。震災後52箇所の小公園が完成するまでには8年ほど要ししましたが、その初期のものは大体この延長にあるつくりをしています。井下さんは復興小公園の整備の途中、海外視察の旅に出ていますが、その帰国後の小公園は、どうやらその影響を受けているようです。特にドイツ・北欧などの公園に感銘を受けたらしく、事実、形としても若干影響を受けているものもありますし、かなり造形的に凝った設計をするようになります。元町公園がデザインされたのはちょうどこの時期にあたると思われます。

■ただし井下さんはこのあと少し考え方を変え、かなりシンプルな設計をするようになっていきます。その基本的考え方は「叱り、叱られない」公園、つまり管理者が利用者を叱らない、利用者が管理者に叱られない公園を目指すというものです。例えば、ある二つのスペースを植え込みで仕切ったとき、そこに人が入って植え込みが荒れるというのは、利用者が悪いのではなく、そういう利用をさせてしまう設計が悪いのだということです。こうして復興小公園の後期のものは、広場と児童スペースをの分け方などに改良を加えていきます。このように井下さん達は短い期間の中でも、よりよい公園の姿を追い求めて続けていたといえます。そして単に公園を設計するだけでなく、これをどのように使ってもらうかということを、たとえば「公園の一日」というようなパンフレットを作り、朝から夜にいたる公園の使い方を市民に知らせ、公園が真に地域を育てていく場所となることを考えていたのです。

■元町公園はちょうど復興小公園のいわば中期の作ということになり、井下さん達が日々研究していたさまざまなアイデアが込められているだけでなく、造形的にも一番意欲的にデザインされたという意味で、今なお、初めて見た人すらもひきつける空間となっているのではないかと思います。開園当初の元町公園の写真です。有名なカスケードも注目ですが、照明灯のデザインなどもなかなか凝ったものです。また当時の眺望のよさも知ることができます。元町小学校方面を写した写真からは、実際に校庭とつながっていた様子がよくわかります。また当時の子どもの姿はまだ「モダン」ではありませんが、公園は飛び切りモダンなものが、まさにやってきた、という観があります。これは言い換えればこの公園が当時の市民はもちろん、将来の市民に向けて用意された贈り物だったということです。

■また元町公園は単独にモダンな空間だったわけではありません。元町小学校はもちろん、近辺には西には府立工芸学校(現都立工芸高校)、東には聖橋まど、帝都復興によってモダニズム思潮を体現する空間があらわれていました。この神田川沿いの空間は戦後には風致地区という都市計画の制度に指定され、いまなおかろうじてではありますがその佇まいを保った地域となっています。

■復興小公園は東京市が整備したものですが、元町公園は戦後昭和25年からは文京区に移管されます。その後しばらくは行政が公園のことを取り組む余裕は余りなかったと思われ、元町公園は忘れられた存在となっていったようです。『公園百年史』という昭和48年の書物には、元町公園の写真が載せられていますが、このとき既に復興小公園で当初の姿を残しているのは元町公園だけである、という記述があり、復興小公園が改造されるなどして姿を変えていく中、幸運にも生き残っていたのが元町公園であったといえます。

■そのような中、昭和50年代に文京区では元町公園の改修計画を計画するようになりましたが、その計画は元町公園の姿を大きく変えるものだったそうです。ところがこのときに区の内部で、元町公園の歴史的価値に気づく声があがり、当初の方針を変更して復原の方向で再整備することになったということです。昔の設計図を探し求め、可能なところは復原し、不明のところはいい加減な復原はせず新たにデザインも加え、さらにスロープ整備など時代の要請にもあわせて、単に元に戻すだけではない創造的な復原整備が行なわれました。昭和59年度に作られた平面図の表現からはその復原に向けた強い思い入れを感じることができます。

■このように文京区自身が手当てを行ないながらこれまで維持されてきた元町公園ですが、今年になって市民はこれとまったく反対の計画を区から聞かされることになります。再開発計画の中で公園を現在の小学校の位置に移動するというもので、現元町公園のバリアフリー、安全安心面での欠点を挙げた上で公園を移せばより良いものになるという理屈です。公園の機能が高まるのだからいいでしょうと。しかし公園を移動するということは現在の公園は破壊されなくなるということを意味し、これに対し今多くの立場から異議の声が上がっているのはご承知の通りです。

■ここで元町公園の価値、あるいはより一般に公園の価値というものを整理してみたいと思います。最初は公園の機能です。その公園が今現在どのように役に立つかということです。たとえば遊び場としての機能、自然に親しむ場としての機能、景観を楽しむ場としての機能、防災のための機能などです。行政はもっぱらこれらだけで公園の価値を決めようとします。しかしこれに加えて考えるべきなのは、その公園が生み出されるまでのさまざまな営為、計画や設計にあたっての思想です。要はその公園がどのような志を持って世の中に生み出されたかということです。復興公園の場合、先ほど紹介したような井下さんをはじめとする高い志があったわけです。同じ時間を経た公園でも、その志の有無でその価値も違うということになるでしょうか。こうした価値は行政では難しいですが学の立場ではよく理解されることです。

■しかしながら以上に加えて、行政はもちろん「学」もこれまで充分に捉えてこなかったのが、その公園が生み出されたあとの「履歴」ということです。生活史などという言葉もありますが、その公園、空間が人々に利用されるなかで時間を積み重ねてきたその履歴、さまざまの人々の思いの重なり、これらそのものが価値であるということです。そしてその公園がその土地に変わらずにあり続けてきたことそれ自体が価値でもあるということです。とても基本的な話として、公園というのは都市の中の田園、言い換えると近代社会のなかで、近代化されることをあえてしない反近代の空間ともいえるのですが、それならば変わらずそこにあり続けること自体が大きな価値といえるのです。これはある公園、空間が、「場所」として人々の中でもつ「意味」であるという風にもいえます。

■ある公園の価値を「機能」だけで捉えていては、そこは機能を満たす限りほかの空間と容易に取替えることのできるものとして扱われます。その空間に込められた志、そしてその空間が重ねてきた履歴をとらえることが、取替え困難な場所としての公園を評価する大切な視点と考えます。しかし特に、ある空間に時間の積み重ねがもたらした履歴としての価値については、私を含めて「学」の中でもこれを語る十分な言葉が用意されてこなかったことは反省しなくてはならないと考えています。この問題はここしばらく考えていたことですが、それよりも現実のほうがよほど早いスピードで動いており、後手に回ってしまっているのも何とかしないといけないと考えています。

2006年09月08日

東京新聞 9月5日付記事

東京新聞 したまち支局 のページに元町公園の記事が載っています。
見出しは、元町公園移設問題 文京区が一部保存案提示、有識者は「不十分」 です。

4日(月)におこなわれた「意見交換会」なる会合?に関する記事です。
この「意見交換会」については、都計審委員有志や複数の区民から傍聴の要望書が出されていましたが、拒否されました。日本造園学会は、会の冒頭に「意見交換会」の会議録を速やかに開示するように要請しました。しかし、主催者側(文京区都市計画部など)は、「この意見交換会の結果は、次回都計審の資料にするので(内容はそのときに明らかにされるので)、開示は、次回都計審の後に実施する」という説明もしており、迅速で誠実な対応は期待できそうもありません。また、この「意見交換会」では、学識の先生方に、A、B、C という3つの案が提示されたとのことですが、それらは、会議終了時に速やかに回収されてしまい、つまり 「秘密」 扱い、とされています。

2006年09月07日

毎日新聞 9月7日付 「あんぐるTokyo」

今日の毎日新聞朝刊に、文京区・2公園移設計画 行政と区民が対立 /東京 という見出しで、これまでを簡単に見渡せるような記事が
掲載されています。
以下、記事冒頭部分の抜粋です。

文京区の由緒ある公園の存廃がにわかに注目され出した。体育館や学校建設のための移設計画が2公園で持ち上がり、行政と区民、専門家との対立が強まっている。区は学校統合や施設整備のため開発手続きを進めているが、区民らは 「公園を空き地としか見ていない」 と反発している。

続きはこちらから
http://www.mainichi-msn.co.jp/chihou/tokyo/news/20060907ddlk13040628000c.html

2006年09月05日

毎日新聞 9月2日付

毎日新聞で9月2日に「造園、建築関係者ら防災イベント 文京『元町公園』取り壊し、移設反対」の記事が掲載されました。
http://www.mainichi-msn.co.jp/chihou/tokyo/news/20060902ddlk13040416000c.html

2006年09月04日

週刊ポスト 9月15日号にも

本日発売の『週刊ポスト』(小学館)9月15日号に、元町公園のことが大きくとりあげられています。
「作家の眼」という リレー連載 に、矢作俊彦氏が 「公園レヴュー」 という題で、お書きになっているのです。すてきな写真も一緒です。
本屋さん、コンビニエンスストアへ走れ~

2006年09月04日

防災の日イベント第一部の感想

9/1防災の日。驚く程のどしゃぶりの中、スタッフの方の努力により無事イベントが開催されました。
15分遅れでスタートし、開会の挨拶や 「ぱぱっとかるた@元町公園」 のぱぱっとした説明の後、 「実存する事の重要性」 を説く小野先生によるお話がありました。

その後、待望のすいとん汁。

たてもの応援団 や 文京の文化環境を活かす会 の女性陣が用意してくださいました。雨の日にはこころまでほっと温まる。地元の方々からは口々に「こんなに上手いもんじゃなかった・・」との声。そう、とても美味しかったのです。緊急時にこれを私はつくれるだろうか?そんな不安を抱えながら、マジマジと具をみつめながら堪能いたしました。(その間、防災商品の説明あり)

次は本郷消防署の方による防災訓練。
担当の方々のお話は本当に面白く、こんなに楽しい防災訓練は初めてでした。(皆さんそう思われた様子)簡単な担架のつくりかたと実演。消火器の使い方や非常時に気をつける事等、豪雨をものともせず、皆さん熱心に耳を傾けていらっしゃいました。来年もぜひお二人にお願いしたいと、口々に。・・・私もそう願います。

さて、次は、事前に 「紙芝居のおじさん」 と 予告 がありましたが、樋渡達也さんのお話でした。
パキパキっと携帯イーゼルを手際よく用意され、さながら本物の紙芝居師。
ただ震災の様子を描いた当時の絵はがきなど、貴重な資料を拝見しながらのお話には心を打たれました。公園設計者である井下清氏らが震災の惨状を目の当たりに体験し、そうした想いがこの公園には息づいている。この想いを私たちは大切にまもって行かなければならない、というお言葉には、公園への強くて深いお気持ちを感じました。

私は、自身の想い出や美しいデザインなど、活動のきっかけはささやかなものですが、今回の先生方のお話に、本当の意味での公園の価値を少しだけ理解し、大切なこの公園を「このまま」残していかなければならない大事さを再認識した、とても貴重なイベントでした。
ランドスケープ・コンサルタンツ協会の皆様、造園学会の皆様、スタッフの皆様、雨の中本当にお疲れさまでした。

2006年09月04日

「意見交換会」に仕掛けられた罠

9月4日文京区主催の「秘密」会議は、正式には 『元町公園に関する学識経験者との意見交換会』 というそうです。この会は、次の都市計画審議会を開くための布石であるという点でとても重要なものです。
おそらく三名の学識経験者である先生方は、元町公園の重要性をお話になることと思いますが、失礼なことに、区にとってはその内容はおそらくほとんど興味の無いものなのではないでしょうか。なぜなら、4月の説明会での意見や7月の都市計画縦覧に対する意見書の取扱いと同じように「ご意見はいただきました」という記録だけが残るのです。つまり、「意見交換会は開かれました」、「元町公園の歴史性の継承について(その内容の如何にかかわらず)討議がなされました」という記録だけが残るのです。次の都市計画審議会を開くにはおそらくその記録だけで十分なのでしょう。次の都市計画審議会が開かれれば採決が強行される可能性があります。現時点では、その結果はあまり期待できるものではないでしょう。

2006年09月03日

文京区による緊急「秘密」会議開催!

明日、9月4日の午後2時から、文京区が関連主要学会の緒先生方を集めて緊急特別会議を開こうとしていることがわかりました。(社)日本建築学会、(社)日本造園学会、(社)日本都市計画学会に所属しておられる三名の先生方を区庁舎に呼びつけているようです。
7月26日に開かれた元町公園の都市計画変更に関する都市計画審議会のなかで表明された「現在の元町公園の歴史性の継承について専門家の意見を聞くべき」との意見を受けて開こうとしている会議のようです。要するに、この「秘密」会議=歴史性の継承について検討をした→次回の都市計画審議会を開催、という流れをつくり、文化財保護審議会や景観審議会で正式な討議をせずに済ませてしまおうという意図が手に取るように見えます。
なんという区政でしょうか、わたしたちはただ嘆くしかないのでしょうか。

2006年09月02日

東京新聞9月2日付:「歴史館だより」の廃棄が発覚

大変なことが起こっていました
詳しくは、下記をクリックして記事をお読みください。
http://www.tokyo-np.co.jp/00/sya/20060902/mng_____sya_____012.shtml

もっと詳しくお知りになりたい方は、文京区や東京新聞にお問い合わせになるとよろしいか、とも思います。

2006年09月02日

東京新聞9月2日付:「震災遺産を継承しよう」

東京新聞9月2日に元町公園で1日に開催された「震災遺産を継承しよう」が掲載されました。
http://www.tokyo-np.co.jp/00/tko/20060902/lcl_____tko_____003.shtml

2006年09月02日

関東大震災の記録フィルム復元!

今日、中央区明石町タイムドームで復元された関東大震災の記録フィルムが特別上映されます。その後も見られるようなので、一度は見ておきたいですね。
詳しくはhttp://www.city.chuo.lg.jp/sisetugaido/bunkakurasi/timedomeakashi/を見てください。
上映作品「復元された震災の記録~関東大震災映画フィルム~」
 ※9月2日(土曜日)13:00~ プラネタリウムホール(先着70名)にて特別試写会を行います。
詳しくはお問い合わせください。
関連記事:東京新聞
http://www.tokyo-np.co.jp/00/tko/20060901/http://www.tokyo-np.co.jp/00/tko/20060901/lcl_____tko_____000.shtmllcl_____tko_____000.shtml

2006年09月01日

共同通信社関連の情報です。

2005年5月16日付けで共同通信社から次のような記事http://kk.kyodo.co.jp/iryo/news/0516daigaku.htmlが配信されてるよという情報をいただきました。
順天堂大病院が病児保育の充実を目指して、文京区と相互協力協定を締結し、地域に貢献しようじゃないか!というとても素敵なお話です。その場所には、廃校になった学校を有効利用しようという、これまた二重にグッドアイディアなお話です。来年(ということは今年だ!)後半にはオープンすることを目指しておられたようですが、どうなっているのでしょうか。順天堂大病院は御茶ノ水にあるわけだし、その近所で廃校というと「元町小学校」!?!などと考えてしまうのですが。