« 東京新聞 9月5日付記事 | メイン | 公開質問状のこと »

2006年09月08日

「モダンがまちにやって来た!」(7月24日開催)のご報告

みなさま、大変おそくなりましたが、去る7月24日に開催した緊急シンポジウム 「モダンがまちにやって来た!」 (於:旧元町小学校) について、講演者のかたが、当日のご自身のお話についての概要を送ってくださっているので、ここにご紹介したいと思います。原稿は、8月上旬にいただいていたのですが、いろいろ忙しくしていて、なかなか掲載できなくて申し訳ございませんでした。元町公園と旧元町小学校のこれから について、より広い議論と関心の輪がひろがる一助になることを祈っています。
なお、このシンポジウムは、都計審の前に大慌てで開催したようなこととなってしまいましたが、それでもそのときに、本郷元町パブリックデザイン連考/「モダンがまちにやって来た!」 という名前をつけました。
1回きりではなくて、連続講座のようなものをイメージしています。
わたしたちは、この元町の地でずっとずっと、パブリックデザインについて、みんなで考えていく集まりを続けていきたいな、という夢を抱いています。

元町公園と旧元町小学校が、パブリックデザインについて、そして、防災&震災(災害)復興について、、、、、の意見交換や心の交流の場として活かされていけば、と願っています。

では、前置きが長くなりましたが、7月24日の夜のお話の一部をお読みください。

「震災復興小公園(の価値)」 小野良平(7月24日)

■公園というのは近代にあらわれた比較的新しいものですが、たとえば東京では上野公園は130周年、日比谷公園、新宿御苑は100周年を迎え、いまや歴史の中の存在となっています。こうした都市の顔のような公園ばかりでなく、地域の中の身近な小さな公園が飛躍的に都市に整備されたのは関東大震災の後ですが、これも80年も前のことです。公園は今現在私たちにどれだけ役に立っているかばかりでなく、それがその場所にあり続けた歴史をきちんと評価することが必要と考えます。このような観点で、本郷の元町公園を中心にしながら震災復興小公園の価値を考えてみようと思います。

■地域の身近な小公園は震災復興で突然あらわれたのではありません。「市区改正」と呼ばれた、明治中ごろからの今の都市計画に相当事業の中で少しずつでしたが、街中の小公園が東京に現れました。その始まりは日本橋近くの坂本町公園で明治22年の開園です。街角の四角いスペースに、真ん中に広場をとり周囲を樹木で囲んだ単純なものでした。どこか和風の趣きでもあったようです。これを手がけたのが、東京の公園行政の先駆者である長岡安平さんです。

■こうした小公園は、明治後期から大正期にかけて少しずつ造られていましたが、基本的には財政難からなかなか進みませんでした。しかし一方、都市計画の考え方は市区改正の時代から発展し、近代都市をどのように制御していくのかという議論、研究も公園なども含めて進められ、大正9年には都市計画法という法律もつくられました。こうした時代に発生したのが関東大震災です。つまりこの災いは結果的に当時の最新の都市計画のアイデアを実践する機会を提供することになったのです。

■都市計画法の制定にも深く関わった後藤新平さんのもと、震災をうけた東京(と横浜)は、「帝都復興」として、単なる復旧ではない抜本的な「復興」が目指されました。公園もその重要な存在のひとつで、事実、公園や緑の存在が震災時に火事の燃え広がりを止め、避難所として機能することが確かめられました。こうして公園計画がいろいろ検討されましたが、最終的に実現したのが、東京・横浜でのそれぞれ3箇所の大公園と東京の52箇所の小公園です。

■東京の大公園は、隅田公園、浜町公園、錦糸公園の3箇所です。このうち隅田と浜町公園はともに隅田川沿いのものです。隅田公園は江戸の桜堤をモダンなデザインで復活させたものでした。浜町公園は、緑のネットワークで防災機能を高めようという考え方を具現化し、公園から短いながら並木道が街へ伸びていく特徴を持っていました。

■さらに小公園は焼け野原となった下町を中心に、52箇所にも及んで一気に整備された大変画期的なものでした。これはまさに地域の中の身近な公園として考えられたもので、その最も特徴的なアイデアは、小学校-これも復興小学校として名高いものですが-とペアにして地域コミュニティの核として公園が位置付けられたことです。十分な土地の得られない都心の学校を公園とセットで考えることで、学校からみれば校庭の延長にもなるし、公園からみれば空間の拡がりや災害時のスペースが確保できるというものです。この小公園の整備を指揮したのが東京市公園課の井下清さん、長岡さんの後継者です。

■復興小公園の特徴を少しみたいと思います。空間としては、中心となる広場と、児童の遊ぶスペースを分けた構成をとるのが基本的な特徴です。ただしこの構成は震災復興以前に明治末にできた御茶ノ水公園(震災復興でなくなりましたが)で既に採用されています。震災後52箇所の小公園が完成するまでには8年ほど要ししましたが、その初期のものは大体この延長にあるつくりをしています。井下さんは復興小公園の整備の途中、海外視察の旅に出ていますが、その帰国後の小公園は、どうやらその影響を受けているようです。特にドイツ・北欧などの公園に感銘を受けたらしく、事実、形としても若干影響を受けているものもありますし、かなり造形的に凝った設計をするようになります。元町公園がデザインされたのはちょうどこの時期にあたると思われます。

■ただし井下さんはこのあと少し考え方を変え、かなりシンプルな設計をするようになっていきます。その基本的考え方は「叱り、叱られない」公園、つまり管理者が利用者を叱らない、利用者が管理者に叱られない公園を目指すというものです。例えば、ある二つのスペースを植え込みで仕切ったとき、そこに人が入って植え込みが荒れるというのは、利用者が悪いのではなく、そういう利用をさせてしまう設計が悪いのだということです。こうして復興小公園の後期のものは、広場と児童スペースをの分け方などに改良を加えていきます。このように井下さん達は短い期間の中でも、よりよい公園の姿を追い求めて続けていたといえます。そして単に公園を設計するだけでなく、これをどのように使ってもらうかということを、たとえば「公園の一日」というようなパンフレットを作り、朝から夜にいたる公園の使い方を市民に知らせ、公園が真に地域を育てていく場所となることを考えていたのです。

■元町公園はちょうど復興小公園のいわば中期の作ということになり、井下さん達が日々研究していたさまざまなアイデアが込められているだけでなく、造形的にも一番意欲的にデザインされたという意味で、今なお、初めて見た人すらもひきつける空間となっているのではないかと思います。開園当初の元町公園の写真です。有名なカスケードも注目ですが、照明灯のデザインなどもなかなか凝ったものです。また当時の眺望のよさも知ることができます。元町小学校方面を写した写真からは、実際に校庭とつながっていた様子がよくわかります。また当時の子どもの姿はまだ「モダン」ではありませんが、公園は飛び切りモダンなものが、まさにやってきた、という観があります。これは言い換えればこの公園が当時の市民はもちろん、将来の市民に向けて用意された贈り物だったということです。

■また元町公園は単独にモダンな空間だったわけではありません。元町小学校はもちろん、近辺には西には府立工芸学校(現都立工芸高校)、東には聖橋まど、帝都復興によってモダニズム思潮を体現する空間があらわれていました。この神田川沿いの空間は戦後には風致地区という都市計画の制度に指定され、いまなおかろうじてではありますがその佇まいを保った地域となっています。

■復興小公園は東京市が整備したものですが、元町公園は戦後昭和25年からは文京区に移管されます。その後しばらくは行政が公園のことを取り組む余裕は余りなかったと思われ、元町公園は忘れられた存在となっていったようです。『公園百年史』という昭和48年の書物には、元町公園の写真が載せられていますが、このとき既に復興小公園で当初の姿を残しているのは元町公園だけである、という記述があり、復興小公園が改造されるなどして姿を変えていく中、幸運にも生き残っていたのが元町公園であったといえます。

■そのような中、昭和50年代に文京区では元町公園の改修計画を計画するようになりましたが、その計画は元町公園の姿を大きく変えるものだったそうです。ところがこのときに区の内部で、元町公園の歴史的価値に気づく声があがり、当初の方針を変更して復原の方向で再整備することになったということです。昔の設計図を探し求め、可能なところは復原し、不明のところはいい加減な復原はせず新たにデザインも加え、さらにスロープ整備など時代の要請にもあわせて、単に元に戻すだけではない創造的な復原整備が行なわれました。昭和59年度に作られた平面図の表現からはその復原に向けた強い思い入れを感じることができます。

■このように文京区自身が手当てを行ないながらこれまで維持されてきた元町公園ですが、今年になって市民はこれとまったく反対の計画を区から聞かされることになります。再開発計画の中で公園を現在の小学校の位置に移動するというもので、現元町公園のバリアフリー、安全安心面での欠点を挙げた上で公園を移せばより良いものになるという理屈です。公園の機能が高まるのだからいいでしょうと。しかし公園を移動するということは現在の公園は破壊されなくなるということを意味し、これに対し今多くの立場から異議の声が上がっているのはご承知の通りです。

■ここで元町公園の価値、あるいはより一般に公園の価値というものを整理してみたいと思います。最初は公園の機能です。その公園が今現在どのように役に立つかということです。たとえば遊び場としての機能、自然に親しむ場としての機能、景観を楽しむ場としての機能、防災のための機能などです。行政はもっぱらこれらだけで公園の価値を決めようとします。しかしこれに加えて考えるべきなのは、その公園が生み出されるまでのさまざまな営為、計画や設計にあたっての思想です。要はその公園がどのような志を持って世の中に生み出されたかということです。復興公園の場合、先ほど紹介したような井下さんをはじめとする高い志があったわけです。同じ時間を経た公園でも、その志の有無でその価値も違うということになるでしょうか。こうした価値は行政では難しいですが学の立場ではよく理解されることです。

■しかしながら以上に加えて、行政はもちろん「学」もこれまで充分に捉えてこなかったのが、その公園が生み出されたあとの「履歴」ということです。生活史などという言葉もありますが、その公園、空間が人々に利用されるなかで時間を積み重ねてきたその履歴、さまざまの人々の思いの重なり、これらそのものが価値であるということです。そしてその公園がその土地に変わらずにあり続けてきたことそれ自体が価値でもあるということです。とても基本的な話として、公園というのは都市の中の田園、言い換えると近代社会のなかで、近代化されることをあえてしない反近代の空間ともいえるのですが、それならば変わらずそこにあり続けること自体が大きな価値といえるのです。これはある公園、空間が、「場所」として人々の中でもつ「意味」であるという風にもいえます。

■ある公園の価値を「機能」だけで捉えていては、そこは機能を満たす限りほかの空間と容易に取替えることのできるものとして扱われます。その空間に込められた志、そしてその空間が重ねてきた履歴をとらえることが、取替え困難な場所としての公園を評価する大切な視点と考えます。しかし特に、ある空間に時間の積み重ねがもたらした履歴としての価値については、私を含めて「学」の中でもこれを語る十分な言葉が用意されてこなかったことは反省しなくてはならないと考えています。この問題はここしばらく考えていたことですが、それよりも現実のほうがよほど早いスピードで動いており、後手に回ってしまっているのも何とかしないといけないと考えています。