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2006年07月15日

わたしの意見

元町公園・元町小学校の保存と再生についての要望書
                 
文京区長 殿
                 

京都府京都市山科区安朱馬場ノ東町27-101
大岩剛一(建築家・成安造形大学造形学部デザイン科教授) 


元町公園は母が育った実家の正面に位置していた関係で、私が小学生のころ、昭和20年代後半から30年代にかけてよく遊んだ懐かしい公園です。本郷台地が神田川に落ち込む複雑な地形を利用した、見事なランドスケープをもつすばらしい公園です。同時に、神田川沿いの水辺の景観にとっても切り離すことのできない重要な景観要素でもあります。
その元町公園が、元町小学校ともども取り壊される計画があるという話を聞き、いたたまれぬ思いで筆をとりました。

戦時中元町公園の向かいに住んでいた母によれば、昭和20年、公園の中にはいくつもの防空壕が掘られ、東京大空襲で唯一焼け残ったのが彼女の実家を含む数軒と、元町公園、元町小学校だけだったそうです。当時23歳の母は公園の一番奥、藤棚のある展望台に立って、神田三崎町、神保町方面を真っ赤に染めた夜空と、正面の礫川公園から放たれた高射砲の弾が命中して墜落する米軍機、夜空を引き裂くサーチライトの巨大な光の柱を眺めていました。
昭和34年に一大ブームをひき起こした映画『南国土佐を後にして』(監督・斉藤武市、日活)のロケに使われたことを誇りに思う住民の方々も多いはずです。
関東大震災後につくられた、ランドスケープと建築における昭和初期モダニズムの貴重な資料でもある震災復興公園としての元町公園は、元町小学校ともども戦中戦後を奇跡的に生きぬいた、いわば昭和から平成にまたがる近代史の生き証人といえます。
 
戦後の日本は、いわゆる都市の記憶を一掃することで経済成長を成し遂げました。その結果、大都市から中小の地方都市まで極度の均質化が進み、町の個性がなくなりました。もともとそこにあった真の豊かさと価値に気づかない効率優先の眼差しが、日本の都市をますます醜悪にしています。豊かな里山や古い建造物を壊した跡につくられる住宅地や各種施設の醜さ。面白くもない似たような都市公園を日本中につくってきた愚かさ。文京区はこのような愚かな行為を二度と繰り返すべきではありません。
私は子どもの頃の体験から、この元町公園と神田川の土手の植生がセットになって、多くの生き物をつなぐ豊かな生態系を形成していることを身をもって知っています。体育館をつくるためにこれらの植物を根こそぎにし、替わりに新しい植物を植える愚かさは絶対に避けなければなりません。大都市とその近郊で、緑は多いのに生き物がまったく寄って来ない環境が増えているのはそのためです。生物多様性は、その土地の豊かさの証しなのです。

古きよきものを大切にすることは、何も過去を懐かしむことだけを意味しません。それは子どもたち、若者たちに教え伝えるべき、未来に向けた、もっとも知的で創造的な行為です。私の住む京都では、元町小学校のような老朽化した近代建築が、若者たちのための新しいアートスペースやギャラリー、市や民間の施設として再生し、活況を呈している例に事欠きません。
今後、住民が納得する元町小学校の再生の道が開けるなら、隣接した二つの施設がワンセットになって、都市の記憶を、地域に根ざした生きた実例として未来に継承させる、ユニークなケースになるはずです。計画を見直し、文京区だけでなく東京都をも代表するような、大都市における保存と再生のモデルケースをめざし、住民と一体になって取り組んでいかれることを強く望みます。