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判決文

平成16年3月25日判決言渡・同日原本領収 裁判所書記官
平成15年(行ウ)第99号 建物解体撤去差止請求事件(以下「基本事件」という。)
平成15年(行ウ)第315号 損害賠償(住民訴訟)請求(追加的併合)事件(以下「追加的併合事件」という。)
口頭弁論終結日 平成16年2月3日

判決
当事者の表示 別紙当事者目録記載のとおり

主文
1 原告らの基本事件に係る訴えをいずれも却下する。
2 原告らの追加的併合事件に係る請求をいずれも棄却する。
3 訴訟費用は原告らの負担とする。

事実及び理由

第1 請求

1 基本事件

被告は、別紙物件目録記載の建物の解体撤去をしてはならない。

2 追加的併合事件

被告は、石原慎太郎に対し、金10億円及びこれに対する平成15年4月28日から支払済みまで年5分の割合による金員の支払を請求せよ。

第2 事案の概要

原告らはいずれも東京都民であるが、東京都が別紙物件目録記載の旧同潤会大塚女子アパートの解体撤去の計画案を策定をしたところ、同計画は、同アパートの文化的価値を無視したものであって、文化財保護法、東京都文化財保護条例、地方財政法等に照らし違法なものである等と主張して解体撤去工事の差止めを求める基本事件に係る訴えを提起したものである。その後、同建物の解体撤去が完了したため、原告らは、東京都には本件建物の解体撤去により、新たに同様の建物を建築する場合に要する再築費用10億円の損害が発生したとして、被告に対し、石原慎太郎個人に同額の損害賠償請求をするよう求める追加的併合事件に係る訴えを追加的に提起した。

1 前提となる事実
(括弧内に認定根拠を掲げた事実のほかは、当事者間に争いのない事実か、弁論の全趣旨により容易に認定できる事実である。)

(1)
原告らは、東京都の住民である。
(2)
旧大塚女子アパートは、同潤会が昭和5年5月小石川区大塚窪町5(現文京区大塚三丁目1番地1ほか)に建設した鉄筋コンクリート造地上6階建(住宅部分4・5階建、地下1階、敷地面積1257.54平方メートル、総戸数157戸)の建物である(以下「本件建物」という。乙3)。本件建物は、女性専用のアパートとして単身女性が安心して都市生活を送るための居住の場を提供する目的で建設され、その管理は、当初同潤会が行い、次いで住宅営団法(昭和16年法律第46号)により設立された住宅営団が同潤会の全事業を引き継ぐ一環として継承し、住宅営団は昭和25年に本件建物を東京都に売却した。
(3)
東京都は、本件建物の買受後も、本件建物を引き続き単身女性専用の都営大塚女子アパートとして管理してきたが、建物が老朽化していること等から、昭和57年、本件建物の空き家入居募集を停止した(乙4)。
(4)
東京都は、平成14年12月10日、株式会社松輸産業(以下「松輸産業」という)。との間で、代金を3150万8400円、工期を平成15年3月31日までとし、本件建物の解体撤去等を内容とする解体工事契約を締結した。その後、上記契約の工期は同年4月28日までに変更され、同日、本件建物解体撤去は完了した(乙25、33ないし35)。

2 争点及び争点に関する当事者の主張

(1)
被告及び補助参加人(但し補助参加人は追加的併合事件について。以下被告及び補助参加人を合わせて「被告ら」という。)の主張

基本事件に係わる訴えの適法性
地方自治法242条の2第1項1号の訴えは、差止めの対象となる行為が完了すれば差止めの余地はなくなり不適法なものになると解されるところ、本件訴えは、本件建物の解体撤去の差止めを求めるものである。そして、本件建物の解体撤去は、平成15年4月28日までに完了したから、同解体撤去の差止めの余地はなくなり、本件訴えは不適法になったものといわざるを得ない。
したがって、基本事件に係る訴えは却下されるべきである。

解体撤去に至る経緯
(ア)
文京区は、平成11年11月15日、東京都に対し、本件建物の「早期建替に関する要望書」を提出した(乙5)。内容は、本件建物の老朽化、居住環境、景観上の問題等を考慮し、早期の建替を要望したものであった。併せて、建替計画の策定に当たり、「にぎわいとやすらぎのある商業拠点の形成及び住環境に充実」という目標に沿った計画となるよう要望するものであった。
(イ)
東京都は、平成11年12月、本件建物の建替について事業実施団地としての決定をした後、平成12年4月、本件建物について、具体的な建替を行う準備が整い、概ね2年以内に工事の着手が見込まれる団地(事業化団地)としての決定をした(乙7、8)。
(ウ)
東京都は、本件建物が築70年余りを経過し、建築物として老朽化が著しいので、劣化状況等を技術的見地から診断するため、専門的知識を有する株式会社五味建設設計事務所(以下「五味設計」という。)に委託し、平成13年9月28日から同年11月30日までの間、本件建物の調査をした。
調査委託内容は、履歴外観調査、構造部材断面調査、コンクリート強度等の調査、建物の耐震・劣化診断、保存方法等の検討であった。
(エ)
上記調査結果の内容は、以下のとおりであった。

コンクリートの中性化が進行していること、鉄筋の錆膨張によるコンクリートの爆裂・落下が著しいこと

耐震診断の結果、現行基準の耐震性能は確保されていないこと

防火区画がされていないとともに、二方向避難も確保されていないこと

電気配管、水道管、配水管等、老朽化が著しく部分的に補修使用していること

建物の現況保存には、基礎補強費用を除いても約18億円の費用がかかること
(オ)
東京都は、平成13年9月から同年12月までの間、本件建物の文化財としての価値の側面から調査検討をした。
調査の結果、本件建物には、重要文化財の指定・登録有形文化財の指定及び東京都文化財保護条例(昭和51年3月31日東京都条例第25号)による東京都指定有形文化財の指定はなく、東京都景観条例(平成9年12月24日東京都条例第89号)による東京都選定歴史的建造物の選定のないこと、文京区文化財保護条例(平成4年3月31日文京区条例第28号)による区指定有形文化財の指定はないこと、東京都において文化財保護行政を担当している東京都教育庁による建物調査の対象になったこともないことが明らかになった。
さらに、東京都は、「日本近代建築総覧 各地に遺る明治大正昭和の建物」(昭和55年刊行日本建築学会編、乙11)により本件建物に対する評価の検証をしたが、本件建物については、同書中で特に重要なものあるいは注目すべきものとしては扱われていなかった。
以上の(エ)及び(オ)の結果、東京都は本件建物自体を現状のまま現地に残すまでの価値はないと判断した。
(カ)
社団法人日本建築学会(以下「建築学会」という。)は、平成13年11月、本件建物の保存・再生の可能性を追求し、後生へ伝えていく方策を積極的に検討する要望を内容とする「旧同潤会大塚女子アパートメントハウスの保存・再生に関する要望書」を東京都に提出した(以下「建築学会による要望書」という。乙12)。
(キ)
東京都は、平成12年11月1日、100戸程度の既設都営住宅団地は区への移管を積極的に推進するという決定をしたところ(乙13)、建替計画個数43戸の本件建物の建替計画は同方針に適合しなくなったため、東京都は、平成14年1月、本件建物の建替計画を取り消すとともに、用地を有効活用するため本件建物を解体撤去することを決定した(乙14)。
(ク)
旧同潤会大塚女子アパートメントを生かす会(以下「生かす会」という。)は、平成14年4月26日、「同潤会大塚女子アパートメントハウスを生かすべく意見書および要望書」(以下「生かす会による要望書」という。乙15)及び「都営大塚女子アパートの民間事業による利活用方式の提案」(以下「生かす会による提案書」という。乙16)を、同年5月20日、「『旧同潤会大塚女子アパートメントの買取りによる保存・再生事業』提案の主旨」(以下「生かす会による提案の主旨」という。乙17)を東京都に提出した。これらの内容は、民間の買取による保存及び再生の事業提案であった。東京都は、提案内容を検討し、同年7月18日、民間の創意工夫による事業性を確保しつつ、建物等の一部保存・再生を行おうとする点は意義深い取組みではあるが、用地を売却する場合は、地方自治法に基づき一般競争入札を原則としなければならないこと、入札の公平性を確保しなければならないことから、特定業者への売却と受け取られる問題があり、同提案は受け入れることもコメントすることもできない旨の回答をした(乙18)。
(ケ)
建築学会は、平成14年8月13日、「旧同潤会大塚女子アパートメントの保存再生方法に関する見解」を東京都に提出した(以下「建築学会による見解書」という。乙19)。同見解書の内容は、本件建物は東京都による保存再生が最も望ましいものであるが、これが困難な場合には「現状の建物付きでの払い下げ」を検討し、建築物を除去した上での土地だけの一般競争入札だけは回避するべきであるという申入れであった。これに対し東京都は、同年10月16日、保存運動のある本件建物付での売却の場合、多くの民間事業者はその入札を見送る可能性が高く、特定の者への売却を前提としていると受け取られかねず、入札の公平性を欠く恐れがある旨の回答をした(乙20)。
(コ)
東京都は、本件建物は同潤会が建設し、都営住宅の中で最も古い建築物であり、建築様式が一般的な都営住宅と異なっていることから、建物の記録保存を行うため、建築学会関東支部に平成15年3月31日までを契約期間とし、本件建物の記録保存委託をした(乙21)。委託内容は、同潤会アパートにおける大塚女子アパートの位置づけ、建物の履歴、外観及び内部の写真撮影、既存建物平面プラン集(設計図の再現)、文献調査であった。
また、建築学会から部材等の保存措置等の要請があり、洋室造りの居室一室分の内装(ベッド、洋服ダンス等)について、江戸東京博物館等に保管することとした(乙22ないし24)。
(サ)
東京都は、平成14年12月10日、株式会社松輪産業との間で、本件建物の解体工事契約を締結したが、建築学会、社団法人日本建築士連合会(以下「建築士連合会」という。)、社団法人日本建築家協会(以下「建築家協会」という。)及び生かす会の4団体は、解体の撤回を求め「旧同潤会アパートメントの解体に反対する声明」を東京都に提出した(甲6)。これに対し、東京都は、平成15年1月、本件建物は劣化や設備の老朽化が著しく、耐震性や防火性等の点かれも建物の安全性を確保することが極めて難しい状態であること、建物の改修費用に多額を要すること等を総合的に考慮し、解体し敷地を更地にした上で土地の活用を図ることとした旨の回答をした(乙26)。
また、建築学会より、本件建物の見学会の要請があり、東京都は、平成14年1月から12月にかけてその開催(24回、延べ参加者数約600名)に協力してきた経緯がある。

本件建物が文化財保護法及び東京都文化財保護条例により保護されるべき文化財に当たらないこと。
(ア)
文化財保護法は、文化財のうち指定、認定等の行政行為により特定された物件のみが法律の保護を受けるという仕組み(選択保護主義)を採っており、文化財価値を持つものであれば全て保護の対象となるという仕組みは採っていない上、同法1条、2条1項、3条からは、同法にいう「文化財」とは、全ての文化的価値を有する有形・無形の財産を指すのではなく、特に歴史的、学術的価値を持ち、かつ、保護の措置を採らなければ破壊され、又は消滅するおそれのあるもの、及び、活用することが国民の文化的向上及び世界文化の進歩に役立つものを指すのであり、保護する必要のある有形・無形の文化的財産を指すものと解される。
そして、1860年代から1945年に至る間の日本の近代建築で主要なもののリスト一覧(登載件数1万3000件)とともに、そのうち特に重要なもの、あるいは注目すべきと考えられる作品を指摘した前記「日本近代建築総覧 各地に遺る明治大正昭和の建物」(乙11)によれば、本件建物は上記リストに挙げられているものの特に重要あるいは注目すべきと考えられる作品とされていないこと、本件建物の評価については高低両方のものがあることからみれば、本件建物が文化財保護法2条1項1号にいう「歴史上又は芸術上価値の高いもの」とまでは判断し得ないから、本件建物が文化財保護法による保護の対象になっている文化財に該当するとはいい難い。なお、文化財保護法は、重要文化財及び登録文化財の規定を置いているが、本件建物は重要文化財の指定を受けておらず、登録文化財としての登録もされていない。また、本件建物は、東京都文化財保護条例の保護の対象となる文化財にも該当しない。
(イ)
さらに、仮に本件建物が文化財保護法等にいう文化財に該当するとしても、同法3条及び4条2項は、その文言から訓示的規定ないし努力義務を定めたものと解されるから、違反したとしてもその行為を直ちに違法ならしめる規定ではない。

被告は、文化財保護法及び同条例の趣旨を十分尊重したこと
(ア)
本件建物の解体撤去には、前記イ(ア)ないし(エ)のとおり、行政上の必要があった。
(イ)
被告は、本件建物の解体撤去決定に際し、前記のとおり本件建物の文化財的価値について調査検討し、前記文献により本件建物に対する評価の検証を行い、さらに本件建物の記録保存委託、一部部材の江戸東京博物館等での保存措置を採っているから、本件建物の文化的価値を十分尊重し、部材等の保存に努めているものである。
(ウ)
また、東京都は、生かす会による意見書及び要望書、同提案書、同提案の主旨、建築学会による見解書の内容をそれぞれ検討し、前記のとおり回答したほか、平成13年11月28日に提出された建築学会による要望書、11月30日に提出された建物調査・報告書を踏まえて、建築学会員であり、生かす会の会長代理を本件建物に案内した上、意見交換を行った。その際、建築学会の視察についての便宜を図るよう要請があったことから、平成14年1月19日及び同月26日、建築学会関係者のための見学会を開催し、東京都の建物調査報告書を渡す等をした。
さらに、東京都は,建築学会からの部材等の保存措置等の要請に応じて、洋室造りの居室一室分の内装等について、江戸東京博物館等に保管することにしたのであるから、本件建物の保存を求める各団体にも誠実に対応した。
(エ)
以上のとおり、被告は,文化財保護法及び同条例の趣旨を十分尊重した上で解体撤去を決定しており、文化財保護法4条2項の規定が訓示規定であることゆえにその規定に全く配慮しないとか、それに著しく違反する行為をした事実は存在しない。

本件建物の解体撤去には地方財政法に違反する違法がないこと
(ア)
地方財政法8条は、地方財政の健全性確保の見地から、地方公共団体の財産の管理、運用の原則を規定したものであるところ、同条の「良好な状態においてこれを管理」とは、善良なる管理者の注意をもって管理すべきことを命じたものであり、「その所有の目的に応じて最も効率的に」運用するとは、その財産の用途用途に適応して最も効果あるごとく運用すべきことを命じたものである。本件建物の解体撤去は、本件建物が老朽化によりその本来の用途であった住宅としての用に適しなくなったことから、東京都の財産である建物の敷地の有効活用を図るために決定したものであり、その財産の用途用途に適応して最も効果あるごとく運用するためのものであるので、本件建物の解体撤去には同条違反の違法はない。
なお、本件建物は老朽化し、その本来の用途である住宅として使用するに適しなくなったものであるが、たとえ現状のままで保存するにしても、安全性を確保する耐震補強等のために18億円を超える費用が余分に必要となる。
(イ)
そして、本件建物の解体撤去は、地方自治体の政策判断に関わるものであるところ、東京都は、財産の有効活用に関する基準である「財産利活用総合計画」の方針に準拠して有効活用策を検討した上、複数の選択股の中から本件建物の解体撤去という方針を決定したものであって、東京都がどの選択股を採るかは、政策判断として批判の対象となることはあっても、法的に違法と評価されるためには、社会通念上著しく妥当性を欠く等裁量権を逸脱、濫用したと認められる点があるかどうかで審査されるべきである。そして、都営住宅の効率的管理の必要性や、東京都が数年に続く税収の落ち込み等大幅な財源不足に陥っており、短期間での改善の見込みもないこと等からは、被告が、本件建物に追加的な財政支出をして維持・保存することよりも、本件建物を解体撤去しその敷地を有効活用する方針を打ち出したことは客観的に合理性があり、社会的にも相当性のある政策判断であるというべきである。

東京都に損害が生じていないこと
(ア)
本件建物は、建築後70年以上経過し経済的な建物価値としてはゼロに等しいが、薄価上の価値としては残存しているため、財産管理上、本件建物の除却時における現存価値を300万2000円と算定され、本件建物の除却により直接的に消滅する交換価値は同額となる。しかし、仮に本件建物の処理方針の決定を先延ばしにして、本件建物を現状のまま暫定的に保存する場合には、老朽化した建物のもたらす危険を防ぐための安全確保策を講じる必要があり、本件建物の隣接する歩道等が小学校等の通学路となっていることや、近隣住民から外壁剥離による落下防止や不法侵入者による犯罪等への安全対策について度重なる申し入れがあることを考慮すると、落下防護ネットの未設置部分への設置、無断浸入防止の鋼板塀の設置が必要となり、その費用は466万円となるから、本件建物の残存価値を上回ることが明らかである。
(イ)
また、原告らは、本件建物の再築には少なくとも10億円を要するので、東京都の被った損害は同額を下らないと主張するが、本件訴えの対象となる財務会計行為は財産管理行為であるところ、本件建物の取り壊しにより問題とされるべき損害は、本件建物の客観的な財産的価値(時価)であって、原告らの主張する再築に要する費用は、同様な建物を新たに建築する場合の費用(新築費用)であり、本件のような損害賠償額の算定方法として不適当である。そして、本件建物の取り壊し時の財産としての価値は、前記のとおり台帳価格である300万2000円である。なお、本件建物を都営住宅としての使用を前提として現況保存する場合には、18億円を超える費用が必要となることも、前記のとおりである。
なお、生かす会の耐震補強・劣化診断報告書によれば、補修費用は東京都の報告書によるよりも安価ですむ旨の記載がされている。しかし、生かす会の報告書では、補修方法を暫定レベルで選定している点で相当でなく、恒久レベルでの選定による試算をした東京都の報告書に記載された費用が、生かす会の報告書による費用より高額なものとなるのは当然である。また、その他の生かす会による報告書において記載された、補修費用をより安価にするための各提案は、いずれも現実的でなく採用することができない。
(ウ)
以上によれば、本件建物解体撤去により東京都に損害が生じていないことは明らかである。
(2)
原告らの主張

基本事件の訴えの適法性被告の主張は争う。

文化財保護法・同条例違反
(ア)
本件建物は、我が国の近代住宅史上並びに住宅政策史上極めて重要な意義を有する建物であり、女性の社会進出という時代の趨勢を端的に反映し、職業婦人専用の集合住宅として建てられたという点で、社会史・文化史的観点からも極めて重要な価値を有する建物である。
また、本件建物は、戦前期の著名な建築家である野田俊彦の設計によるもので、時代の特徴を表すデザインと計画が見られる点や、同潤会アパートの中で唯一当初の目的通り公共集合住宅として維持されてきたため、大幅な改造・模様替えもなく、建物内部が建築当初の原型を留めている建物である。
そして、本件建物には、建築学的価値として、建築意匠の芸術的価値、建築史的価値、建築技術史的価値、家具史的価値、集合住宅史的価値、都市型集合住宅としての価値、都市計画史的価値、都市史的価値という有形の価値があり、文化史・社会史上の価値、女性史的価値、都市生活史的価値という無形の価値があることからすると、文化財保護法2条の我が国にとって歴史上又は芸術上価値の高いものという「文化財」に該当する。また、近年では工場等の産業文化遺産も文化財として認められていることからすると、本件建物の文化財的価値が認められるべきであることはもちろん、少なくとも東京都にはこうした文化財的価値を検討する義務があるというべきである。
(イ)
また、本件建物は、建築後70年を経た昭和初期のモダニズム建築で、女性の社会進出という時代の要請を反映している点、大正末期・昭和初期の建築様式をそのまま留めており、造形の規範となっている点、現在同潤会のほとんどの建物が壊され再現が困難である点で、文化財保護法56条の2第1項各号の要件である「造形の規範となっているもの」「再現することが容易でないもの」という要件を満たしており、登録有形文化財とされてしかるべきものである。
(ウ)
本件建物が文化財に該当する以上、東京都には文化財保護法3条1項により本件建物の保存と活用が適切に行われるよう努め、同法4条2項により本件建物が貴重な国民的財産であることを自覚し、これを公共のために大切に保存しできるだけこれを公開する等その文化的活用に努める義務がある。しかるに、被告は、20年前に入居者の新規募集を停止した上、本件建物の文化財としての価値を全く検討しないままに本件建物の解体を決定した。他方、被告が本件建物を解体撤去する目的は、単に更地にして売却するためというにすぎず、他に公共使用目的がある等のやむを得ない事情は全く存在しない。したがって、東京都が本件建物を解体撤去する行為は、文化財保護尊重義務を定めた同法3条、4条2項及び同条例3条に違反することが明らかである。
(エ)
被告らは、本件建物の解体撤去を決定するに際し、重要文化財の指定・登録有形文化財の指定、東京都文化財保護条例による東京都指定有形文化財の指定、東京都景観条例による東京都選定歴史的建造物の選定及び文京区文化財保護条例による区指定有形文化財の指定がされていないことを確認した旨を主張するが、これらの指定、選定がされていないことは、本件建物の所有者である東京都が文化財保護尊重義務を怠ってきたことを示すものにほかならず、上記確認をしたからといって、文化財としての価値を調査検討したことにならないのは明らかである。
また、被告らは、本件建物が東京都教育庁による調査の対象になったことがないと主張するが、このことも東京都が文化財保護尊重義務について、それが自己の義務であるとの自覚がなくこれを怠ってきたことを示しているにすぎない。
さらに、被告らは、乙第11号証には本件建物がリストアップされているにすぎず、特に重要あるいは注目すべきものとしての印が付されていないと指摘する。しかし、同書証は、1980年3月時点のものであってその時点で本件建物に印が付されなかったとしても、その後印の付されていた青山アパートを含め同潤会アパートが次々に取り壊され、残された本件建物の希少性が一層高まっていることを考慮すべきであるし、そもそも同書にリストアップされているだけで文化的価値があるとも解される。また、被告らは、乙第1号証には、本件建物に関して高低両方の評価があると主張するが、被告らの指摘する点は著者が主観的な印象を述べたものにすぎないし、本件建物の文化的価値が低いとは述べられていない。そうすると、これらの書証を挙げて本件建物の文化的価値を検討したとする被告らの主張は失当であり、このような検討は何ら調査・検討されていないに等しいものである。
さらに、被告らは、本件建物の底地の売却を含む有効活用を図ることを計画している旨を主張するが、被告らが売却以外の活用方法を具体的に検討した証拠はないし、有効活用するのであれば文化財である本件建物を保存したまま有効活用することがまず具体的に検討されてしかるべきところ、これがされた形跡も認められない。
(オ)
被告らは、文化財保護法4条2項、同条例3条3項は、訓示規定ないし努力義務である旨を主張する。しかし、本件で問題とされているのは被告の行政責任であり、被告の主張によれば、訓示規定の場合にはこれに反するいかなる行為も常に違法にはならないことになるが、このような法律解釈は不合理であって、行政裁量をどのようにコントロールすべきかという最近の学会、司法の動向に全く反するものである。
文化財保護法3条は、政府及び地方公共団体に法律の趣旨の徹底に努めなければならない旨を規定するが、その対象は政府及び地方公共団体以外の者であり、政府や地方公共団体が文化財保護法の趣旨を認識していることを当然の前提としている。また、文化財の所有者が国や地方公共団体である場合、保存費用は税金であること、財産の効率的運用が求められていることを考慮すると、単に文化財としての価値のみでは文化財の保護義務があるとは必ずしもいえないのであって、保存費用や財産の効率的運用を考慮せざるを得ない。しかし、そのような考慮をした上で保存しない旨の判断をしたとしても、行政の判断が常に正しいわけではなく、その判断が誤っていた場合に行政責任が生じるとこは明らかである。
そうすると、文化財保護法4条2項が努力義務の形式を採っていたとしても、本件の場合には、被告に本件建物を保存すべき義務があったかどうかについて司法的に判断がされるべきである。(なお、大けやき伐採についての東京地方裁判所平成14年11月19日判決参照)。
そして、被告らは、本件建物の文化財としての価値を検討したと主張するが、被告の検討が検討というに値しないことは原告らが既に主張し、
あるいは後記に主張するとおりである。被告らが、東京江戸博物館等での部材の保管をしたのは、日本建築学会からの要請に応じて行われたものであること、平成11年12月3日には被告が本件建物の取り壊しを決定していたこと(なお、平成14年1月に建替計画は取り消されたが、本件建物の取壊しという方針には変更がなかった。)、平成13年9月ころ、五味設計に対して本件建物の調査を依頼しているが、この調査は劣化状況について技術的見地からの診断を求めたものであり、文化財としての評価を求めたものではなく、保存の可否を検討するためのものでもなかったこと、平成13年11月には建築学会による要望書が提出されたにもかかわらず、被告は専門家の意見を聴取等を経ることなく、文化財保護行政所管部局である東京都教育委員会に照会をすることもなく自らの決めた取壊しの方針に邁進したこと、文化財保護法に照らし、新たに指定ないし登録すべきものではないかとの観点からの検討はしていないこと等からすると、被告が十分な検討を経て本件建物の解体撤去を決定したとは到底認めることができない。
(カ)
本件で最大の問題は、取り壊し後の敷地の利用計画が何もない状態で、本件建物を取り壊したことであり、そもそも本件建物を保存した場合に得られる利益と比較衡量すべき利益が何もないことである。被告は、本件建物については、倒壊などの危険があるといえるか、本件建物の文化的価値の検討(専門家からの意見聴取を含む。)を行い、文化的価値があると判断した場合、保存が可能かどうか、本件建物の用途の検討、費用の見積、取り壊し後の本件敷地の利用の検討(被告による新しい都営住宅、図書館、公民館等の公共施設、公園、避難場所等の建設、文京区等への払下げ、民間への売却、売却価格の検討等)を総合的に検討すべきであったのであり、被告による検討がこのようなものに該当しないことは、前記のとおりである。

地方財政法違反
(ア)
東京都、地方財政法8条により、東京都の財産である本件建物を常に良好の状態において管理し、所有の目的に応じて最も効率的に運用しなければならないところ、本件建物は耐震補強が容易であり、倒壊又は崩壊の危険性除去のために解体撤去する必要はない。また、本件建物の底地を売却するのであれば、本件建物とともに底地を売却することも可能であるから、売却前に本件建物を解体撤去する必要もない。
(イ)
東京都は、同法8条により、本件建物の管理処分を検討するに際し、文化的、歴史的見地等も含め、専門家からの意見を聴取する等して情報収集した上、客観的資料に基づいて合理的な判断をすべき義務、善良な管理者としての注意義務を負っている。しかし、本件建物の解体撤去を決定する過程において、本件建物の文化的、歴史的価値は一顧だにされていない。
平成14年5月20日には、建築士の作成した具体的プランが東京都に提出されたほか、建築学会、建築士連合会、建築家協会の3団体の会長が、同年12月24日、本件建物の保存を申し入れたにもかかわらず、東京都は、本件建物の保存を前提とした検討を全く行っておらず、手続的にも地方財政法8条に基づく善管注意義務に違反する。
(ウ)
そうすると、財産の管理・運用に関して東京都に裁量権が与えられているとしても本件建物の解体撤去は、その裁量権を著しく逸脱又は濫用するものであり、違法である。

本件建物の構造上の安全性について
(ア)
昭和初期の歴史的建造物は、一般的に現代的な建物よりも壁が多く、構造的な安全性を確保する補強が容易である。実際に、本件建物と同時代の数多くの建物が耐震補強を行って使われている。本件建物は、窓が小さく壁の面積が広いのみならず、一部屋が4畳半程度の小さな個室の多い間取りとなっているため、柱の数が今日の建物に比べて非常に多く、現状の形を損なうことなく容易に補強を行うことが可能である。
(イ)
東京都は、平成13年11月に本件建物の調査を行ったが、その報告書は、本件建物を長期的に現状保存するためには、躯体及び仕上げの補修、補強等が必要であり、技術面・コスト面を考慮すると現実的ではないと結論付けた上、現況保存の概算費用を18億1000万円と見積もり非常に費用がかかると結論付けている。
東京都の調査は、技術的には本件建物の構造上の安全性を確保し保存することが可能であるものの、費用がかかりすぎるというのが本件建物保存に消極的な理由とされている。しかし、本件建物の文化財的価値を検討し、十分価値があると認められれば上記金額は必ずしも高額とはいえないし、本件建物の保存のために最適の補修工事が何かを詳細に検討すると、東京都の上記価格をはるかに下回る額で工事が可能であるから、東京都の見解は誤っているといわざるを得ない。
すなわち、平成14年5月の生かす会の耐震補強・劣化診断報告によれば、比較的少ない材料による補強の提案が検討されており、補強材料を少なくすることにより基礎部分への負担を軽減するという最も合理的な補強方法が検討されている。また、内外壁改修工事と耐震補強工事を一体化して総合的に行うことで耐震補強で約6億円、内外壁の改修で約4億円、合計9億6000万円を減額できるとされている。したがって、東京都は、本件建物の補修工事として最適な工事が何かを検討せず、取壊しを前提として補修に高額の費用がかかると結論づけており、この点で本件建物の安全性確保及び保存に関する見解は誤っている。

防災上の安全性について
(ア)
東京都の調査報告によれば、防災面での安全性に関しても本件建物には問題があるとされているが、これらは東京都が基本的なメンテナンスを怠った結果であり、東京都の本件建物の管理の不当性が強く批判されなければならない。しかし、この点を措くとしても、東京都の指摘する問題点は、いずれも二次部材、設備部材についての維持管理の問題であり、本件建物の構造的な欠陥とはいえない。そして、問題点については、住戸の境界壁を耐火性能のある素材で仕上げることや、出入り口等の建具の張り替え、劣化している部材の改修・補強、設備内容の更新等の工事により十分回復可能な機能であり、東京都の調査報告でもこれらの検証がされている。
(イ)
東京都は、設備等の改修・更新の実施に伴う費用として、二次部材の改修で5000万円、電気・機械設備の更新で2億3000万円、防災関連の改修で1億5000万円がかかる等としている。しかし、東京都の試算は各改修等の項目を別個独立の費目として計上し算出しているため、実際に要する費用を大きく上回る結果となっている。改修計画立案に際しては、建物の居住者がすべて退去した後に一括して改修工事が行える場合には、それぞれの部分が独立に回復するわけではなく、建物全体の機能を総合的に回復するための改修計画を建てるのが通例であり、このような点を考慮すれば経費は大幅に削減でき、二次部材、設備部材の改修、更新については、構造の補強等を行う部分との調整を行うことで全体の工事コストの軽減を図ることができる。
そうすると、本件建物は、構造上・防災上の問題が全くないとはいえないが、改修して保存することが十分に可能であり、しかもある程度の金額内で実現できるものであるから、本件建物を長期的に現状保存することは技術面・コスト面を考慮してもなお十分に現実的である。

被告らの主張に対する反論
(ア)
被告らは、本件建物の活用方針の決定に際し、どの選択肢を採るかは被告の政策判断として法的には代替可能なものないしは同価値なものである旨を主張するが、これらの選択肢は代替可能なものでも同価値なものでもない。すなわち、文化財保護法等の法令により、被告は選択肢の中でも本件建物を維持保存する選択肢を少なくとも優先的に検討しなければならないし、優先的に検討したといえるだけの手続的な過程を踏まなければならない。被告らは、日光太郎杉事件の控訴審判決を引用するが、同判決は、この手続的過程において、本来最も重視すべき諸要素、諸価値を不当、安易に軽視し、その結果当然尽くすべき考慮を尽くさず、または本来考慮に容れるべきでない事項を容れもしくは本来過大に評価すべきでない事項を過重に評価し、これらのことによりこの点に関する判断が左右されたものと認められる場合には、裁量判断の方法ないし過程に誤りがあるものとして違法になる旨が判示されているのであって、本件においても被告らが本件建物の文化財的価値について当然尽くすべき考慮を尽くさなかったことは、前記原告らの指摘したとおりであり、裁量判断の方法ないし過程に誤りがあるのであって、違法である。
(イ)
また、被告らは、建築学会等に対し、東京都が十分な説明を行った旨を主張し、建築学会等が本件建物の解体撤去を容認したかのような主張をするが、建築学会やその会員は、本件建物の解体撤去に一貫して反対し、具体的提案や意見具申をする等してその保存を求め続けていたのであって、これに対し被告らは、提案を具体的に検討することもなく解体撤去の方針に変わりがないと述べていたにすぎないものであるから、十分な説明を行った等とは到底いうことができない。これらの過程からしても、被告らの裁量判断の方針ないし過程には違法があったというべきである。

以上によれば、本件建物の解体撤去は、文化財保護法、同条例、地方財政法等の各規定に違反する違法な財務会計行為であるから、被告は、石原慎太郎に対し、上記財務会計行為により東京都に生じた損害額10臆円の損害賠償をするよう求める義務がある。

第3 争点に対する判断

1 基本事件に係る訴えの適法性について

基本事件に係る訴えは、本件建物の解体撤去の差止めを求めるものであるところ、乙第25号証によれば、東京都は、平成14年12月10日、松輪産業との間で、平成15年3月31日までの期間を工期として本件建物の解体撤去等を内容とする除却工事請負契約を締結したことが認められる(なお、同契約の工期は、同月25日、同年4月28日までに変更された。乙33、34)。
そして、乙第35号証によれば、本件建物は、上記工期の変更後の同契約に基づき、同年4月28日に解体撤去が完了したことが認められる。そうすると、基本事件に係る訴えにおいて差止めの対象とされた行為は、口頭弁論終結時において既に完了したことが認められるから、同行為の差止めの余地はもはや存在しないというべきである。したがって、地方自治法242条の2第1項1号に基づく基本事件に係る訴えは、差止めの対象を欠く不適法なものであるから、訴え却下を免れない。

2 損害賠償請求義務の存否について

(1)
東京都の行った政策判断の適否について

本件建物解体撤去に至るまでの検討内容
本件各証拠(甲5、6の1ないし5、乙5ないし8、10ないし26、32、36ないし38、40、41ないし44、48、49)によれば、以下の事実が認められる。
(ア)
文京区は、平成11年11月15日、東京都に対し、本件建物の「早期建替に関する要望書」(乙5)を提出したが、同要望書の内容は、本件建物の老朽化、居住環境、景観上の問題等を考慮し、早期の建替を要望するとともに、併せて、建替計画の策定に当たり、「にぎわいとやすらぎのある商業拠点の形成及び住環境の充実」という目標に沿った計画となるよう要望するものであった。
(イ)
東京都住宅局建設部長は、平成11年12月、本件建物の建替について事業実施団地としての決定をした後(乙6)、平成12年4月、本件建物について、具体的な建替を行う準備が整い、概ね2年以内に工事の着手が見込まれる団地(事業化団地)としての決定をした(乙7、8)。
(ウ)
東京都は、本件建物が築70年余りを経過し、建築物として老朽化が著しいと判断し、劣化状況等を技術的見地から診断するため、専門的知識を有する五味設計に委託し、平成13年9月28日から同年11月30日までの間、本件建物の調査をした。同調査委託内容は、履歴外観調査、構造部材断面調査、コンクリート強度等の調査、建物の耐震・劣化診断、保存方法等の検討であった。
(エ)
上記調査結果の内容は、以下のとおりであった(乙10)。

コンクリートの中性化が進行していること、鉄筋の錆膨張によるコンクリートの爆裂・落下が著しいこと

耐震診断の結果、現行基準の耐震性能は確保されていないこと

防火区画がされていないとともに、二方向避難も確保されていないこと

電気配管、水道管、配水管等、老朽化が著しく部分的に補修使用していること

建物の現況保存には、基礎補強費用を除いても約18臆円の費用がかかること
また、総合所見の末尾には、長期的に現状保存していくには、躯体及び仕上げの補修、補強等が必要であり、技術面・コスト面を考慮すると現実的ではないと思われる旨の記載がされていた。
(オ)
東京都は、平成13年9月から同年12月までの間、本件建物の文化財としての価値の側面から調査検討した。
調査の結果、本件建物には、重要文化財の指定・登録有形文化財の指定及び東京都文化財保護条例(昭和51年3月31日東京都条例第25号)による東京都指定有形文化財の指定はなく、東京都景観条例(平成9年12月24日東京都条例第89号)による東京都選定歴史的建造物の選定のないこと、文京区文化財保護条例(平成4年3月31日文京区条例第28号)による区指定有形文化財の指定はないこと、東京都において文化財保護行政を担当している東京都教育庁による建物調査の対象になったこともないことが明らかになった。
さらに、東京都は、「日本近代建築総覧 各地に遺る明治大正昭和の建物」(昭和55年刊行日本建築学会編、乙11)により本件建物に対する評価の検証をしたが、同書においては、掲載された建物につき特に重要なものあるいは注目すべきものとの注記をする欄があるところ、本件建物については、そのような注記はされていなかった。
そこで東京都は、本件建物自体を現状のまま現地に残すまでの価値はないと判断した。
(カ)
建築学会は、平成13年11月、本件建物の保存・再生の可能性を追求し、後生へ伝えていく方策を積極的に検討する要望を内容とする建築学会による要望書(乙12)を東京都に提出した。同要望書には、本件建物が我が国の集合住宅の歴史を考える上で極めて貴重な遺構であること、社会史・文化史的観点からも極めて重要な価値を有することから、本件建物の保存再生の可能性を追求し、後生へ伝えていく方策を積極的に検討してほしい旨の記載があった。
(キ)
東京都住宅局は、平成12年11月1日、区部に存する100戸程度の既設都営住宅団地は区への移管を積極的に推進するという決定をしたところ(乙13)、建替計画戸数43戸の本件建物の建替計画は同方針に適合しなくなったため、同局建設部長は、平成14年1月、本件建物の建替計画を取り消すとともに、用地を有効活用するため本件建物を解体撤去することを決定した(乙14)。
(ク)
生かす会は、平成14年4月26日、生かす会による要望書(乙15)及び生かす会による提案書(乙16)を、同年5月20日、生かす会による提案の主旨(乙17)を東京都に提出した。生かす会による要望書には、同潤会の集合住宅のうち、とりわけ本件建物は都市の記憶としての歴史的建築である点、女性の自己実現を支える住まいである点、地域の力を高める建築計画である点などで極めて重要な価値を有すること、このような建物の保存再生は東京都の社会的義務であること等が記載されていた。また、上記提案書には、本件建物の具体的な利活用方式の提案として、民間事業者を事業主体として、土地・建物の権利を売却・譲渡し、PFI的事業方式により既存建築を再生活用する案や、既存建築の歴史文化的価値を最大限に活用しつつ、交通至便の文教地区という立地条件を生かすことにより、若者の活動拠点や福祉の拠点として社会的に意義のある利活用をする案、さらに定期借地方式の導入や資産の債権化による民間投資の誘導により、民間事業者や大学・国際機関等の非営利法人が利活用と運営に参画するという案が提示された。さらに、上記提案の主旨には、民間の買い取りによる保存・再生の方針が再度提案された。
これらに対し東京都住宅局は、提案内容を検討し、同年7月18日、民間の創意工夫による事業性を確保しつつ、建物等の一部保存・再生を行おうとする点は意義深い取組みではあるが、用地を売却する場合は、地方自治法に基づき一般競争入札を原則としなければならないこと、入札の公平性を確保しなければならないことから、特定業者への売却と受け取られる問題があり、同提案は受け入れることもコメントすることもできない旨の回答をした(乙18)。
(ケ)
建築学会は、平成14年8月13日、東京都住宅局長に対し、建築学会による見解書(乙19)を提出した。同見解書の内容は、本件建物は東京都による保存再生が最も望ましいものであるが、これが困難な場合には「現状の建物付きでの払い下げ」を検討し、建築物を除去した上での土地だけの一般競争入札だけは回避するべきであるという申入れであった。これに対し東京都は、同年10月16日、保存運動のある本件建物付きでの売却の場合、多くの民間事業者はその入札を見送る可能性が高く、特定の者への売却を前提としていると受け取られかねず、入札の公平性を欠く恐れがある旨の技監コメントにより回答をした(乙20)
(コ)
東京都東部住宅建設事務所は、本件建物は同潤会が建設し、都営住宅の中で最も古い建築物であり、建築様式が一般的な都営住宅と異なっていることから、建物の記録保存を行うため、建築学会関東支部に平成15年3月31日までを履行期間とし、本件建物の記録保存委託をした。
委託内容は、同潤会アパートにおける大塚女子アパートの位置づけ、建物の履歴、外観及び内部の写真撮影、既存建物平面プラン集(設計図の再現)、文献調査であった。(乙21)。
また、同学会から同事務所に対して部材等の保存借置等の要請があったことから、洋室造りの居室一室分の内装(ベッド、洋服ダンス等)について、江戸東京博物館等に保管することとした(乙22ないし24)。
(サ)
東京都東部住宅建設事務所は、平成14年12月10日、松輪産業との間で、本件建物の解体工事契約を締結したが、建築学会、建築士連合会、建築家協会及び生かす会の4団体は、解体の撤回を求め「旧同潤会大塚女子アパートメントの解体に反対する声明」(乙19)を東京都に提出した。これに対し、東京都は、平成15年1月、本件建物は劣化や設備の老朽化が著しく、耐震性や防災性等の点からも建物の安全性を確保することが極めて難しい状態であること、建物の改修費用に多額を要すること等を総合的に考慮し、解体し敷地を更地にした上で土地の活用を図ることとすることを決定し、その旨を住宅局長名で回答した(乙26)。
また、建築学会より、本件建物の見学会の要請があり、東京都は、平成14年1月から12月にかけてその開催(24回、延べ参加者数約600名)に協力した。
(シ)
以上の認定にかかる期間中、東京都がその文化財保護行政を所管する東京都教育委員会に対して本件建物の文化財としての価値について照会した事実はない。
また、東京都においては、前記(キ)のとおり本件建物の解体撤去の方針を決定する際はもとより、現在においても、その跡地をどのように利用するかについての方針を決定していない。

本件建物の解体撤去と文化財保護法
文化財保護法1条、2条1項、3条によれば、同法の保護を受ける「文化財」とは、全ての文化的価値を有する有形・無形の財産を指すものではなく、指定、認定等の行政行為により特定された物件のみを法律による保護の対象とする趣旨であると解されるところ、本件建物は、同法の文化財あるいは重要文化財としての指定、登録有形文化財としての登録をいずれも受けておらず、同条例の東京都指定有形文化財の指定も受けていないことは当事者間に争いがない。そうすると、本件建物には、文化財保護法及び同条例の直接の適用はないから、同法3条1項、4条2項、同条例3条に直接違反すると解する余地はないものといわざるを得ない。
また、文化財保護法3条及び4条2項は、その文言からしても訓示規定ないし努力義務を定めた規定であって、これらの規定に違反する行為が直ちに違法となるものと解することはできないことからすれば、被告による本件建物の解体撤去が、文化財保護法等の規定に全く配慮しない、あるいは著しく違反した行為であると認められる場合にのみ、地方公共団体の基本的な責務に違反するものとして違法となる余地があり得るものと解される。そこで、本件で、被告が本件建物の解体撤去をするに際し、このように文化財保護法等の規定に全く配慮せず、あるいは著しく違反した行為であると認められるかについて検討する。

本件建物の文化財的価値
原告らは、本件建物が実質的には保護されるべき文化財としての要件を満たしていることを主張し、被告による本件建物の解体撤去は、文化財保護法の趣旨に違反するものであって違法である旨の主張をするところ、被告は、本件建物は実質的にも文化財保護法2条1項1号にいう「歴史上又は芸術上価値の高いもの」に該当せず、同条例の文化財にも該当しないと主張する。
そこで検討するに、甲第21、第22号証によれば、本件建物に関しては、建築学会が、歴史的に大きな価値があるものとして本件建物の保存再生に関する見解書を提出していること、建築学会長、建築士会連合会長、建築家協会長は、本件建物の社会的・文化的価値が高いものとして、被告に対し、連名で、保存再生を話し合う機会を設けるよう申入書を提出していることが認められる。さらに、東京大学大学院新領域創成科学研究科助教授である証人清家剛の証言によれば、本件建物は、関東大震災の後に問題となった火災による被害を防ぐために建物を不燃化するという目的の下、鉄筋コンクリートを用いて建築されたという構造上の技術、日本の住まい方を検討した上で内装や浴室関係の設備において日本初の技術が用いられた点や、各居室が女性が一人で住むための部屋という新しい視点により設計された点で構造上、設備上の特徴があり(証人調書第3項ないし第5項)、不燃化促進プロジェクトの一環として街のところどころに新しい鉄筋コンクリートの建物を挿入するという都市計画分野において意義があり、女性の社会進出を図る点で立地の点でも優れているほか、道路との境界線に接して建てられ、大通りに面している側は、1階に店舗が入れられ、2階以上が居住スペースになっているという点で町並みに非常に近いところで積極的に建物が関わるという新たな都市型住宅のあり方を提案するものであり、都市景観、都市政策の観点からも優れたものであること(同7、8)が認められる。また、東京芸術大学名誉教授である原告前野蕘に対する本人尋問の結果及び同人の陳述書(甲19)からは、本件建物は、例えばモダニズムの影響を受け、スクラッチタイルの帯線が腰壁部分に伸びている点や入り口に大きな丸柱があり、応接室まで引き込まれて、その先に中庭があるという空間的なテーマ性を有するという点、共用施設が非常に豊かであり、特に屋上の日光浴室やパーゴラがある点で芸術性に富んでいること(本人調書第15項ないし第19項)、同潤会は関東大震災後の復興事業として、海外及び国内からの多くの義援金により組織された点、女性の社会進出の足場として大塚という女子に対する高等教育機関と関係が深い土地に建築され、そこから多くの女性が社会に進出したという点で地域的特性を持ち記念性を有すること(同20ないし26)、職業婦人のための施設として、優れて先進的なデザインを用いて建築され、他に同様の背景を有する同潤会の建物が解体されて今日ではほとんど存在しない状況になった点で希少性があること(同27ないし29)、地域へのなじみの度合はさほど高くないものの(同30)、本件建物は適切な手入れ、管理が行われれば集合住宅として十分使用に耐え得る建物である点で機能性をも備えていること(同31ないし35)が認められる。そうすると、本件建物については、建築に携わる複数の専門家によって、その歴史的・芸術的価値が認められているものということができる。
他方、乙第1号証には、被告らの指摘するとおり、本件建物内部について、廊下が暗いことや空気がよどむこと、玄関まわりに旧式のデザインが含まれていること等を指摘する部分があるものの、同書証のような建築の専門図書において本件建物に焦点を当てた記事が掲載されていること自体、少なくとも本件建物の歴史的あるいは芸術的価値が考慮されたものと捉えることも十分に可能であるし、上記各指摘は、本件建物の歴史的又は芸術的価値と両立し得る指摘であると解されるのであって、これらの価値を減じる趣旨のものではないと解するのが相当である。また、本件建物が乙第11号証の文献において、特に重要なものあるいは注目すべきものとしての記載がされていない点は被告指摘のとおりであるが、同号証によると、同文献は現存する近代建築のうちの主要なもののみをリストアップしたものであって、これに掲載されていること自体が当該建物に相当の文化財的価値のあることを示すものであると認められるし、被告の指摘する上記記載は、一般市民の読者を想定して付されたものであって、専門的な評価とは必ずしも一致せず、同文献中の建物リストとは別に地域ごとの特色を述べた「概説」の東京都文京区の部分においては、同区内の多くのリストアップされた建築物の中から他の6件の建物とともに本件建物を取り上げて優れた住宅建築の例としていることが認められるのであるから、同文献自体が本件建物を専門的見地からはかなり高く評価していたものと認めることができる。また、同号証は昭和55年(1980年)に出版された文献であるところ、本件建物のように昭和に入ってから建築された建物については、未だ建築時から十分な年数が経過していないことから一般人の注目をひくことが困難と思われたものの、既に当時から昭和初期の建築が明治期のもの以上にすさまじい勢いで破壊されていたことは同文献も指摘しているところであって、証人清家の証言(同33)によると、平成9年(1997年)に昭和9年に建築された建物の1つが国の重要文化財として指定を受けるなど、1990年代後半に入ってこの時期の建築に対する評価がより高まってきたものと認められることからすると、本件建物についても本件建物解体撤去時において専門的な見地からみた文化的価値はもとより一般人の評価もまた一層高まっていたと認められる。そうすると、本件建物は、文化財保護法2条1項1号の「文化財」の要件を実質的に満たしていた可能性が高いと考えられる。

前記アによれば、東京都は、平成11年11月、文京区から本件建物の早期建替要望書の提出を受けていたこと、本件建物の劣化状況等について、本件建物を長期的に現状保存していくには躯体及び仕上げの補修、補強等が必要であり、技術面・コスト面を考慮すると現実的ではないこと及び補修の概算費用は18億1000万円が必要となることの報告を受けたことから、本件建物が文化財保護法や東京都文化財保護条例による保護の対象となる文化財に該当しないとの判断の下に、東京都が大幅な財源不足に陥っており、短期間での財政状況の改善も見込めなかったこと等を総合的に考慮して、東京都の財産利活用総合計画に定められた利活用方策のうち、本件建物の解体撤去が客観的に合理性があり、社会的に相当性のある政策判断であると考え、本件建物の解体撤去を決定したものと認めることができ、その策定は、本件建物が文化財として保護を要するものでないとの判断を前提とする限りにおいては、一応合理的なものと認めることができるし、東京都の財産利活用総合計画(乙48)の内容とも整合するものになっていることが認められる。
また、原告らは地方財政法違反との主張をしているが、同法は、専ら地方公共団体の財産の経済的ないし金銭的価値に着目したものであって、その文化財としての価値に着目したものではなく、本件建物の金銭的価値に
ついては、上記のような多額の補修費用を負担するのに見合うものとは本件全証拠によっても認められないのであるから、上記判断が同法に違反するとは認め難く、原告らの同主張は採用できない。

しかし、本件建物が実質的にみて文化財保護法にいう文化財に該当する可能性が高いものであったことは前記ウのとおりであるし、建築学会等の専門家集団による本件建物の再生保存の申入れが複数回にわたりなされていたにもかかわらず、東京都は文化財保護行政を所管する東京都教育委員会に対して本件建物の文化財としての価値について照会する等の対策を講じていないことからすると、本件建物が文化財保護法等の保護の対象となるものではないとの上記判断は、行政機関としての専門的判断ではなく、いわば素人判断とのそしりを免れないところであり、これを補完するために専門的文献として乙第11号証の文献を参酌しているものの、この文献自体も全体を丹念に検討すれば本件建物の文化財としての価値を相当高く評価しているものと読みとれることは前記ウのとおりである上、その著者である建築学会が、特に本件建物の保存の必要性を指摘して上記の申入れをしていることからすると、この点について専門的判断能力を有しない本件の所管部局としては、少なくとも上記文献の記載に関する自己の認識を指摘して建築学会の見解を質すことが必要であったと考えられるのであり、これをしないまま、専ら文化財としての指定・登録のないことと乙第11号証の記載のみから上記判断に至ったことは、十分な専門的判断に基づく判断とは到底認め難い。そして、この点についての判断の如何が、専ら経済的利害損失のみを考慮すべきか、又は経済的価値を度外視した考慮を行うかの岐路となるのであるから、本件建物についての東京都の政策決定は、このような判断の岐路をなす前提事実についての判断を誤ったことにより、本来考慮すべき要素を全く考慮しないで結論を導いたものとして、その裁量権を逸脱濫用したとの疑いを払拭できないものである。
もっとも、本件において本来判断をすべき部分は、東京都に損害賠償請求権があるか否かであり、仮に上記政策判断に当たり所管部局の判断に違法な点があったとしても、それによって東京都に財産的損害が生じていなければ、結局原告らの請求は理由がないことになるから、上記違法性の有無については断定を避け、東京都に財産的損害が生じているか否かにつき、項を改めて検討する。
(2)
損害の有無について
本件建物を取り壊すことにより、東京都は、本件建物を失うとともにその取壊費用を出捐することになったのであるから、本件建物の価格300万2000円及び取壊費用3150万8400円の合計3451万0400円の損失を受けたことになる(なお、原告らは、本件建物の価値はより高額である旨を主張するが、本件建物は、原告らの見積もりでもかなりの費用をかけて補修しなければ通常の利用ができない状態にあり、本件全証拠によっても、その文化財としての価値自体を具体的に金銭に見積もることはできないから、本件建物の経済的価値はその帳薄上の価格である上記金額を上回るものであるとは認められない。)。
他方、本件建物を取り壊さない場合には、東京都は本件建物及びその敷地から何らの経済的利益を得られないばかりか、建物の外壁剥離による危険を防止するため落下防護ネットの未設置部分への設置や、建物への無断侵入を防止するための鋼板塀の設置のため約466万円の費用負担が必要となるのに対し(乙53)、本件建物を取り壊してその敷地を更地化すれば、上記費用負担が不要となるばかりか、更地となった敷地を有効に活用することなどにより、上記損害をはるかに上回る経済的利益が得られることは、詳細な検討を待つまでもなく明らかである。
そうすると、仮に本件建物を取壊すとの政策判断が違法なものであったとしても、これによって東京都は、経済的にみる限り損失を大きく上回る利益を得ているのであるから、損害が発生したとは認められない。
(3)
小括
したがって、本件建物を取壊すことについての政策的判断の適否にかかわらず、東京都にはこれによって損害が生じたとは認められないのであるから、被告に損害賠償請求義務があるとも認められない。

3 なお、付言すると、上記1及び2で説示したことからすると、東京都の判断に違法な点があったとしても、その点を是正することができないことになるが、それは住民訴訟制度が、専ら経済的又は金銭的価値の面に着目して、地方公共団体の財務の適正を図るものであることからするとやむを得ない結論といわざるを得ない。また、文化財保護法等の関係法令もまた、所有者が自己の財産の文化財としての価値を理解せずにこれを処分し、国や地方公共団体もこれを阻止しようとしない場合には、他の一般国民や学識経験者らがこれを防止する法的手段を規定していない。このことは、文化財の保存をその所有者と国又は地方公共団体の判断に委ね、それ以外の一般国民等には直接これに介入させないとの立法政策が採られていることを意味するのであって、そのこと自体が憲法に違反するとは考えられないから、このような立法政策が改められない限り、本件原告らのように当該物件について私法上の権利を有しない一般国民としては、たとえ文化財として価値ある物件がその文化財としての価値を考慮されることなく処分される事態が生じても、これを司法上の手段によって阻止することはできないといわざるを得ない。

第4 結論

以上によれば、原告らの基本事件に係る訴えは、不適法なものであるからいずれも却下することとし、追加的併合事件に係る訴えは理由がないからいずれも棄却することとし、訴訟費用の負担について、行政事件訴訟法7条、民事訴訟法61条、65条1項本文を適用して、主文のとおり判決する。
東京地方裁判所民事第3部

裁判長裁判官  藤  山  雅  行
裁判官  新  谷  祐  子
裁判官  加  藤  晴  子